平成9年3月には、JR西日本があらたに〈のぞみ500系〉を投入。

この記録は、世界最速といわれたフランスのTGVを上回るため、JR西日本ではギネスブックにも登録を申請しているほどです。

時刻表には、この世界一速い〈のぞみ〉が、わざわざ500系のぞみと記されています。

ちなみに、東海道山陽新幹線ではこの〈500系のぞみ〉が、東京ー博多間を3往復しています。

下りで最速なのは、東京発11時56分、博多着16時45分の〈のぞみ13号〉だが、この列車、博多に到着するまで何本の新幹線を追い抜くのか、時刻表で調べてみた。

答えは、全部で7本。

内訳は〈こだま〉が4本、〈ひかり〉が3本で、〈ひかり〉に思い入れがある世代には、ちょっとショックかも。

しかし、平成元年3月のダイヤ改正では、JR東日本が常磐線に最高速度、時速130キロという〈スーパーひたち〉を投入。

がデビュー。

一気に在来線のスピードアップがはかられることになったのです。

もちろん、これはこれでけっこうな話なのだが、〈スーパーひたち〉が登場してから、かれこれ10年。

また、青函トンネルを走る特急も、絶対に人のいない区間では、特例として時速140キロでの運転が認可されています。

これには、次のようなわけがあります。

クルマのように、制限スピードが決められているからではないのです。

日本には、列車は、非常ブレーキをかけてから600メートル以内で停止しなければならないという規則があり、これが、列車の最高速度を伸ばせない大きな理由になっているのです。

かって最高速度が120キロから130キロに伸びたときも、JRでは、列車のブレーキ性能をよくすることをはじめ、線路や架線、信号などの安全面について改良が加えられたのです。

単に列車のスピードを上げるだけなら話は簡単なのだろうが、踏切が多い日本の在来線では、いざというとき600メートル以内で停止しなければならないのです。

そのためには、スピードを出したくても出せないという事情があったわけです。

とはいえ、JR東日本の山下元会長は、1991年に行なった政府への答申のなかで、90年代には時速160キロ、21世紀には時速200キロをめざすといっています。

鉄道営業前に誕生していた日本最古の時刻表とは?

日本で鉄道が仮開業されたのは、1872年6月12日、太陰暦でいうと明治5年5月7日のことです。

鉄道が運行すれば、当然時刻表も必要になります。

日本における時刻表の歴史はもっと古い。

原本はすでに不明だが、写しが『史料鉄道時刻表』大正出版発行に載せられていて、ここで見ることができる。

営業開始後に初めて作られた時刻表は、『鉄道列車出発時刻及賃金表』というもので、これは駅の構内に貼り出されていたのです。

この時刻表は面白いことに、時間を時ではなく字という文字であらわしています。

これは、当時まだ太陰暦を使っていたことと関係あるらしく、太陰暦が太陽暦になってからは、時に変わる。

この字の文字を用いた時刻表では、横浜発の上り列車が午前八字発と午後四字発、品川発の下り列車が午前九字と午後五字とあります。

当時は、一日2往復の運行だったわけです。

またこの時刻表には、時刻欄の下にさまざまな注意が書かれています。

乗車を希望する者は遅くとも、この表示の時刻より十五分まえに駅に来て切符を購入することとか、四歳までは無賃、十二歳までは半額荷物の運賃は手回り荷物は三十斤までは二十五銭、三十斤以上六十斤までは五十銭といった具合です。

犬の乗車も認められていて、犬一匹の片道賃銭は二十五銭、ただし旅客車には乗せず、犬箱あるいは車長の車にて運送すること。

さらに、発車時刻を遅らせないために、5分まえには駅の戸を閉めることや、喫煙車でしかタバコを吸うことが許されないといったことも書かれています。

いまJRの時刻表には、ピンクのページなどに乗車に関するいろいろな案内が書かれています。

時刻表が列車の時刻だけでなく、その他の情報を伝える役割を果たしているのは、誕生当初からの伝統なのかもしれないのです。

日本初のダイヤをつくったのはイギリス人鉄道技師だった日本にやって来た外国人が驚くことのひとつは、東京や大阪なだわ大都市で、鉄道が分刻みで正確に運行していることだといいます。

それに加えて、頻繁な追い抜き、退避など、日本の列車の運行スケジュールはち密なことで世界的にも有名。

日本の時刻表の作成者たちは、世界の鉄道マンから、軽業師魔術師などと驚異の目で見られているらしい。

このち密な時刻表を作るのに不可欠なものといえば、列車ダイヤグラム、通称列車ダイヤです。

列車の運転状況を数字であらわしたのが時刻表だとすると、列車ダイヤは運転状況を線であらわしたものです。

列車ダイヤでは、縦軸に距離と駅、横軸に時刻をとり、その時々の列車の位置を斜線で示しています。

その線を見れば、特急列車が普通列車をどこで追い抜くかとか、列車がどれぐらいの時間間隔で運転されているかといったことがひと目でわかる、なかなかのすぐれものなのです。

この列車ダイヤは、時刻表を作成するうえで不可欠な図表だが、日本では明治のL初期、鉄道が走りはじめたころにはすでに用いられていたのです。

前項では日本初の時刻表を紹介した。

いっぽう、日本で初めてダイヤを作成したのは、ページという名のイギリス人鉄道技師だったのです。

このページと列車ダイヤについては、有名なエピソードがあります。

当時、列車の運転計画をすべてまかされていたページは、列車ダイヤの存在を日本人には教えていなかったのです。

彼は列車の時刻表を作成するとき、かならず自分の部屋にこもり、作業の様子はいっさい他人に見せなかったのです。

部屋から出てくるとページは、できあがった時刻表を渡す。

その時刻表は、列車の行きちがいや退避などが、すべて完璧に計算された状態になっています。

時刻表を渡された日本人は、すっかり舌をまいたといいます。

列車ダイヤを使って時刻表を作るということを知らなかった当時の日本人にとって、ページの仕事ぶりは、まさに神業のように見えたことでしょう。

ところでページの活躍した明治のころ、列車はどのようなダイヤで走っていたのか。

これをもとに京都ー大阪間のダイヤを見ると、上下列車が向日町、茨木、吹田の3駅で行きちがっています。

当時はまだ、京都ー大阪間は単線だったため、駅でしか上下列車の行きちがいができなかったのです。

行きちがいができる駅も、京都ー大阪間にある5駅のうち先の3駅のみだったのです。

こうした条件をもとに、何時にどこで行きちがえさせたらいいかを、ページは列車ダイヤに線を描き込みながら考えていったわけです。

そしてページが伝えたダイヤ作成法をマスターした日本人は、さらに技術に磨きをかけ、世界の鉄道マンたちを驚かせるほどになったのです。

たとえば昭和39年の東海道新幹線開通や、43年の東北本線全線電化複線完成などの大イベントがあったときの変更がはなはだしい。

こういうとき、その線の運行スケジュールだけを変えれば、それですむというものではないのです。

その線と接続する別の線の運行スケジュールも変わってくるし、その白紙ダイヤ改正にはなんと2年もかかるイЛ月線の運行スケジュールを変えれば、また別の線もと、けっきょく、その影響はほぼ日本中のダイヤに及ぶからです。

こうなると、当然、これまでのダイヤではうまくいかなくなり、まったく新しいダイヤを作成しなければならないのです。

これを白紙ダイヤ改正というが、この自紙ダイヤ改正は、毎年春や秋に行なわれるダイヤ改正とは、規模も手間も、まるでちがうといいます。

時刻表を見るだけでも、日本にはうんざりするほどの数の列車が走っていることがわかるでしょう。

そのうえ貨物列車のような、時刻表に載っていない列車もあります。

一日何万という列車が、JRの線路上を走っているのです。

たとえば特急列車が普通列車を追い抜くことひとつ考えても、たいへんです。

退避線のない駅で追い抜くことはできないし、たとえ退避線があってもそれが短いと、貨物列車のような車両の長い列車は使えないのです。

いかに効率的に、列車を稼働するかという問題もあります。

どこで、どれぐらいのあいだ、列車を待たせればいいのかも考えなければならないのです。

さらに乗務員の勤務時間の問題もあります。

とくに運転手の労働時間は、過労による事故を避けるため、厳しく制限されています。

運転中を1、待機中を2分の1として、一日平均換算勤務時間を超えないように配置しなければならないのです。

ほかにも、線路の点検や手入れのために、1時間ぐらいは列車の走らない時間を設けなければならないとか、通勤ラッシュのときには特急を割り込ませないようにするなど、考えなければならないことは山ほどあるのです。

こうした列車ダイヤ作成にまつわるさまざまなエピソードを紹介した『列車ダイヤの話』中公新書の著者阪田貞之助氏によると、1回の自紙ダイヤ改正に要する時間は、およそ2、3年だといいます。

よく、自紙ダイヤ改正のおかげで、まえより列車が使いにくくなったなどという声も聞くが、白紙ダイヤを作成する人たちの苦労を思うと、そんな不満もなかなかいいにくいです。

この中央線快速は、東京西郊の広大な住宅地を抱えているため、朝夕は2分間隔のラッシュになります。

さて、そんな中央線の起点となっている東京駅。

東京駅では、1番、2番ホームがこの中央線快速用に使われているが、終着点であるにもかかわらず、線路がさらに先の有楽町のほうまで延びているのをご存じでしょうか。

中央線快速は、東京駅で折り返し、ふたたび高尾方面行きの電車としていま来た線路を引き返すだけだから、行き止まり式にしても差し支えないはず。

じつはこれ、中央線快速が、ラッシュ時には2分間隔で運転していることと大いに関係しているのです。

超人気の中央線快速は、通常でも昼間は2〜10分間隔で運転されているが、ともかく、この2分間隔というハードスケジュールを、毎日毎便、事故を起こさずにやってのけるのは、ほとんど奇跡に近い離れ業なのです。

この離れ業をこなすには、できる限り円滑に電車を走らせ、時間のロスは避けるようにしなければならないが、このとき、もし終着点である東京駅のホームが、行き止まり式になっていると、どうしても構内進入時に徐行運転をしなければならなくなります。

多餞しかし、2分間隔で運転しなければならない中央線快速に、徐行運転をするだけの時間のゆとりはないのです。

そこで東京駅では、通常の駅に入っていく場合と同じスピードで進入できるようにするため、その先の有楽町方向まで線路を延ばしているというわけです。

中央線快速をきちんと2分間隔で走らせるための工夫は、ほかの駅にもあります。

ラッシュ時に時間をとられるのは、人の乗り降りだが、2分間隔を保つためには、これを30秒程度でこなす必要があります。

そこでとくに人の乗り降りの多い新宿、中野、三鷹駅では、ラッシュ時にはホームの両側に2台の列車が乗り入れられるようにしています。

そうすれば、先着の列車で乗客の乗り降りが終わっていなくても、次の列車が構内に入ることができる。

また、ドアを開く側を交互にして、乗客の乗降を分散するといった工夫もあります。

中央快速線の2分間隔という超過密ダイヤは、こうしたJRの知恵によって、なんとか実現可能となっています。

そこで列車のなかには山を越えて走らなければならないものも多いが、列車というのは坂道が大の苦手です。

そこでいきおい山をくりぬいたり、谷を橋でつなげたりして、列車を走らせることになります。

平成8年度末の時点で、日本における鉄道のトンネルの数は4764。

総延長距離は3069キロ。

トンネルだけで本州の西の端である下関から東北の盛岡まで、ほとんど1往復できる長さです。

これをJRだけで見ていくと、トンネルの総数は3625、総延長距離2105キロで、全体のほぼ4分の3を占めていることがわかります。

ではそのJRのなかで、最も長いトンネルはどこか、ここではベスト5までご紹介しましょう。

1位……津軽海峡線青函トンネル5万3850メートル2位……上越新幹線大清水トンネル2万2221メートル3位……山陽新幹線新関門トンネル1万8713メートルトンネルと橋りょうの長さ全国ベスト54位……山陽新幹線六甲トンネル1万6250メートル5位……上越新幹線榛名トンネル1万5350メートルちなみに地下鉄をのぞいた私鉄のなかでもっとも長いトンネルは、北越急行のほくほく線にある赤倉トンネルで、長さは1万472メートル。

JRの5位と比べてもまだかなり短いのだから、トンネルではかって国家を背負ったJRが不動の貫録を見せています。

トンネルの次に、橋りょうを見てみましょう。

このうちJRのものは9万2902で、総延長距離は1901キロです。

数はともかく、距離はトンネルほどの割合を占めていません。

1位……JR東北新幹線。

第一北上川3868メートル2位……関西国際空港空港連絡線関西国際空港連絡橋3691メートル3位……JR本四備讃線。

南備讃瀬戸大橋1723メートル4位……JR本四備讃線北備讃瀬戸大橋1611メートル5位……JR本四備讃線下津丼瀬戸大橋1447メートル2位に関西国際空港線が入り、このほかにも私鉄には、長さ1236メートルの営団東西線荒川中川橋梁があります。

橋りょうに関しては、私鉄もなかなか健闘しているようです。

なかなか全車両が通り過ぎてくれないので、イライラする人も少なくないでしょう。

型とかく長いものが多い貨物列車だが、それでもむかしと比べるとかなり短くなったようです。

宮脇俊三氏の『時刻表昭和史』によると、昭和8年当時の貨物列車は50両、60両編成も珍しくなかったといいます。

では客車でもっとも長い列車は、どれくらいの長さがあるのでしょうか。

日本の最高記録は、26両編成で520メートルというもの。

ただしこれは、日本がまだ蒸気機関車時代だったころの話です。

最近のもので長い列車なら、やはり16両編成の東海道.山陽新幹線ということになります。

全長400メートル。

1号車から16号車まで歩くと、時速4キロと計算して6分もかかる距離です。

海外に目を向けると、さすがに世界は広い。

ギネスブックには、南アフリカで1989年、全長73キロ、660両編成の貨車が、22時間40分かけて861キロ走ったという記録があります。

電気機関車とディーゼル電気機関車合わせて16両を使い、総重量6万9393トンの貨車を引っ張ったというが、はて、660両もの貨車には何が積まれていたのやら。

また、アメリカやカナダではよく100両編成で3000トンある貨車を、3台のディーゼル機関車で引っ張る貨物列車を見かけるといいます。

大陸の東と西を、3日間かけて横断するというのだから、そのスケールの大きさに恐れ入る。

客車では、1991年にベルギーで、全長1732メートル、70両編成のものを、電気機関車1両で引っ張ったという記録が残っています。

評判はさんざんで、JRさえもいつの間にかこのニックネームをあまり使わなくなってしまったが、そんなニックネームのなかで、すっかりおなじみになったものもあります。

エル特急もそのひとつ。

ところでこのエル特急、いったい何がエルなのでしょうか。

じつは大した意味はないらしい。

ところで、時刻表を眺めているとわかるように、エル特急には次のような特徴があります。

原則として始発駅の発車時刻を0分発、15分発と、切りのいい時刻にします。

30分から1、2時間おきに運行。

こんな時間にきっちりしたエル特急が生まれたのは、JRがまだ国鉄だった1972年昭和47年のこと。

エル特急は乗りやすく、親しみやすい特急をめざしてつくられたため、こんな特徴もあったのです。

かならず自由席を設ける。

誕生の目的が特急の大衆化にあっただけに、少しまえまでのエル特急はどの列車に乗っても同じようなものだったのです。

ところが民営化以後、各JRグループとも特急の個性化をめざしはじめ、その結果、エル特急にもいろいろなタイプが誕生しています。

これからのエル特急のエルには、一8庁見てという意味も、あらたに加わったりして。

これは運転停車と呼ばれるもので、次のような理由が考えられます。

たとえば、高山本線は本線にもかかわらず単線のため、たとえ特急であっても、普通列車との行きちがいのために停車することがあるとくにダイヤが乱れたときなど。